ブログ/日記

「はるか」の人生を振り返ってみる

これまでの人生を振り返ってみました
haruka

こんにちは、はるかです!

今回は、私のこれまでの人生を本気で振り返ってみたのですが……書き終えてみたら、なんと1万字を超えるボリュームになってしまいました(笑)。

「えっ、長すぎ!」って思うかもしれません。
決して特別なドラマがあったわけではありません。ただ、一つひとつの出来事に向き合ってきたら、それだけ「リアルな現実」が詰まっていたんです。

  • ベトナム生まれ、日本育ちのアイデンティティ問題
  • 借金(奨学金)700万からの社会人スタート
  • 一家離散に離婚、結婚式当日の父との絶縁……

そんな、普通なら性格がスレてしまうようなボロボロの状態から、どうやって資産500万を貯めて、それなりに幸せな主婦になれたのか?その裏側を、一切包み隠さず全部書きました。

正直、一気に読むのは大変かもしれません。
でも、もしあなたが今「お金の不安」や「家族の悩み」を抱えているなら、どこか一部だけでもいいので覗いてみてほしいです。

「こんな状況からでも、人生ってやり直せるんだ!」って、少しでも勇気を持ってもらえたら嬉しいです。

生まれ~小学生編

おてんば娘と、家の緊張感

私の生まれは、ベトナムのホーチミン。

両親もベトナム人で、私はそこで産声をあげました。
生後1年で父の仕事の関係で日本に来てから、ずっと日本で暮らしています。

家では両親がベトナム語で会話していたので、リスニングだけはバッチリ。でも、当時の私は自分のことを「100%日本人」だと思い込んでいました。

そんな私に最初の衝撃が走ったのは、保育園の頃。
母から「あなたはベトナム人なのよ」と教えられ、子供ながらにものすごいショックを受けたのを覚えています。

当時の家は、いつもピリピリしていました。

父は今思えば「癇癪(かんしゃく)持ち」で、母を泣かせてばかり。
私にとって父は、絶対に怒らせてはいけない「怖い人」でした。

家があんまり好きじゃなかったから、外で遊べる保育園が楽しくて仕方なかった!
プールにピアノに、習い事も全力。
女子なのに活発すぎて、同じ年の男子とケンカしてプールサイドで立たされるような、そんなやんちゃな子でした。

いたずらっ子のおてんば娘

小学校に入ってからも、おてんばは加速します。

ある朝の集団登校、早く集合場所にきた私は、友達を呼ぼうと家のチャイムをピンポン連打しまくったんです。
朝の忙しい時間にピンポンを連打され、そこのお母さんは激怒。

犯人は私なのに、なぜかリーダーの男の子が叱られて泣いてしまって……。

今思い出しても本当に申し訳ない。

「勉強」という逃げ場のない戦い

高学年になると、父の干渉がエスカレートしてきました。

「勉強しろ!」と怒鳴られ、テレビを見ていたのがバレて叩かれたこともあります。
それ以来、私の定位置はリビングの学習机。

逃げ場のない空間で、ただ父の機嫌を伺いながら机に向かう毎日。
父の期待が重すぎて、勉強が大嫌いになりました。

でも、唯一の救いは母でした。
あんなに父に怒鳴られて泣いていた母が、気丈に反撃するようになったんです。
母が強くなって、泣かなくなった。それが何より嬉しかったです。

裏切られたXmasプレゼント

小学校生活の後半、家族に対する態度が変わる出来事が起きました。

クリスマス、父と「シルバニアファミリー」をもらう約束したんです。
ワクワクして待っていたのに、父が買ってきたのは……なんと「CDコンポ」

「いらない!約束が違う!」 裏切られたショックで、その日から私は家族との外食に行かなくなりました。

さらに追い打ちをかけるように、父がリストラにあい、あんなに頑張っていたプールとピアノも辞めることに。

父の不機嫌はピークに達し、ついには「もうお前に期待しない」と突き放されました。
普通なら悲しむところですが、当時の私は「これで勉強しなくて済む!」と、ほっとしたのを覚えています。

「枯葉剤」と呼ばれた日と、弟の誕生

そんな家庭のバタバタの中で、友達から「枯葉剤(かれはざい)」という言葉を投げられたのもこの頃でした。

枯葉剤とは

ベトナム戦争の時にジャングルを枯らす目的でまかれた強力な除草剤のことです。その毒性の影響で、結合双生児として生まれた「ベトちゃんドクちゃん」のニュースは、当時日本でも大きな衝撃を与えていました。

言った友達も、言われた私も、本当の意味なんてよく分かっていなかったけれど、「自分はみんなとは違う、何か怖い存在だと思われているのかな」と感じて、なんだか胸がチクッとして悲しかったのを覚えています。

でも、そんな暗い気持ちを吹き飛ばしてくれたのが、新しく生まれた弟の存在でした。

もう、可愛くて愛おしかったです。

中学生編

「クール女子」を演じすぎて、自分を見失った中学時代

小学生の頃までは、とにかく活発な子供でした。

ところが、思春期特有の「漫画の影響」で、何をトチ狂ったか「クールでミステリアスな女子」を演じ始めました。

これが大失敗(笑)

クールを装って黙り込んでいたら、いつの間にか授業で発言することすらできなくなり、気づけばすっかり「陰キャ」の殻に閉じこもっていました。

でも、ありがたいことに小学校からの私を知っている友人や、私の内側に眠る「活発な片鱗」を見抜いていた先生たちが、私を生徒会長に推薦してくれました。

生徒会長選挙では、私だけが立候補していて信任投票でした。
選挙管理委員をしていた友人が「信任投票で、不信任がほぼゼロだったよ」と教えてくれたとき、嬉しい気持ちになったのを今でも覚えています。

生徒会長にはなったものの、中身はまだ「発言できない陰キャ」の名残がある私。

各委員会のリーダーが集まる「代表者委員会」での司会は、まさに地獄でした。
うまく場を回せず、沈黙が流れる会議室はすごく重かったです…苦笑

誰かアドバイス求めればよかったのですが、そんな発想もでないくらい余裕がなかったと思います。

孤独なプレッシャーに押しつぶされそうな毎日でした。

この時の経験があるからこそ、今のブログでは「一人で悩んでいる人に寄り添いたい」という気持ちが根底にあります。

15歳のスピーチコンテスト

生徒会長としての仕事で一番記憶に残っているのは、国際平和のスピーチコンテストです。

私は、小学生の時に友達から聞いた「枯葉剤」の話をテーマに原稿を書きました。
それがまさかの市内で最優秀賞。
市の代表に選ばれました。

コンテストの大会では優勝こそ逃しましたが、「審査員特別賞」をいただきました

学校側は「この感動的な原稿を全校生徒に配りたい」と言ってくれましたが、私は頑なに断りました。
その「枯葉剤」の話を教えてくれた友人が、どんな気持ちになるか心配だったからです。
でも、コンテストに引率してくれた先生がものすごく感動してくれてらしく、後日の授業で私のスピーチの内容をクラスに話していました。

私が気にしていた「枯葉剤」の部分は伏せて……。
ちょっぴり恥ずかしかったですが、嬉しかったです。

乗りに乗っていたけど…

乗りに乗っていて、修学旅行の学校内の俳句大会では、私の句がクラス代表に選ばれました。

その俳句が

寺守る ふたりの男と 睨み合い

京都で見た金剛力士像(仁王像)の迫力を詠んだものです。
周囲が告白イベントで盛り上がる中、私には一切浮いた話がなかったため、この「睨み合い」の句ができた気がします(笑)

頭は良くなかったですが、生徒会長という肩書と、国際平和スピーチコンテストの審査員特別賞、俳句大会など、先生たちからの評価は高かったと思います。
そんな私ですが、進路に関しては親と激しく衝突しました。

ちょうどこの頃、父の私に対する当たりは一段と強くなっていました。
父が家にいる時間が増え、母からこっそり

「お父さん、リストラされたのよ」

と聞かされました。

自分の失敗を子供には繰り返させたくなかったのか、あるいは自分の自尊心を保つために「子供だけは完璧であってほしい」と願ったのかは分かりません。

父は、私の実力も顧みず、地域で一番の進学校を受けるよう執拗に勧めてきました。
スピーチや生徒会活動で大人たちからの評価が高まっていたことも災いし、私の本当の学力を見ようとしない母までもが、父に同調して「その学校へ行きなさい」と言い出したのです。

「お前ならできる」という、根拠もない押し付けの期待。
それが私には苦痛でしかありませんでした。

結局、自分の身の丈に合わないその高校を受験しましたが、結果は当然のように不合格。
合格発表の日、目の前でひどくショックを受ける両親を横目に、私は「ほれ見たことか」と、どこか他人事のように冷めた気持ちでその光景を眺めていました。

自分の人生を勝手な期待で塗りつぶそうとした親に対する、それが私なりの、あまりに静かでささやかな反抗期だったのかもしれません。

そんな経験があるから、私は自分の子供たちには「絶対に意見を押し付けない!」って心に決めています

「お前ならできる」なんていう無責任なプレッシャーじゃなくて、私の失敗も成功もひとつのネタとして見せながら、「こういう道もあるよ」ってさりげなく背中を押してあげられる親でいたいなって。

子供の人生は、あくまで子供のもの。

私が今こうして資産運用を頑張っているのも、実はお金で子供の選択肢を縛りたくないし、自分の将来の不安を子供にぶつけるような親になりたくないから。

ママは大丈夫だから、あんたたちは好きなことやりな!

はるか
はるか

胸を張ってそう言えるようになるのが、今の私の目標です。

卒業式の「答辞」

滑り止めの女子高へ進むことになった私ですが、中学の卒業式の最後に「大仕事」が待っていました。それが、卒業生代表の「答辞」です。

普通、答辞って校長先生に向かって用意された紙を読み上げるものですよね?
でも、生徒会顧問のリカ先生が、とんでもない提案をしてきたんです。

リカ先生
リカ先生

感謝を伝えたい相手は、先生や親、あとに続く生徒たちでしょ?
だったら後ろを振り返って、全部暗記して自分の言葉で話しなさい!

って。

本番前はもう、緊張で吐きそう(笑)

でも、いざ壇上でみんなの方を振り返り、目を見て一生懸命言葉を届けたら、会場のあちこちから鼻をすする音が聞こえてきました。「あ、伝わってる……」って肌で感じた瞬間でした。

このスピーチのインパクトは本当に凄まじくて、大人になって友人の結婚式に行っても、当時の保護者の方から「あの中学のスピーチの子だよね!」なんて声をかけられるほど。

リカ先生がいてくれたおかげで、私は最後に「自分」を出し切ることができたんだと思います。

この経験は、私にとって大きな転換点になりました。

「私の言葉で、誰かの心を動かせるんだ」という自信がついたおかげで、高校生活では中学時代のあの「陰キャ気質」もちょっぴり改善された気がします(笑)

高校生編

部活と、エロ本と、ちょっぴり切ない受験失敗

中学の卒業式で「自分を出す」自信をつけた私。

ドキドキしながら進んだ女子高ライフは、想像以上に最高でした!

よく「女子校って陰湿そう……」なんてイメージを持たれますが、私の学校は全然そんなことなくて。みんな信じられないくらいオープンで、居心地が良すぎました。

どのくらいオープンだったかというと、性に対しても開放的すぎた(笑)

クラスの後ろにあるロッカーに、みんながこっそり持ち寄ったエロ本が並んでるんです。
もはや共有ライブラリ状態。
私は自分では持ってきてなかったけど、そこにある本は端から端までしっかり読みました(笑)

結局、先生にバレて持ってきた子たちは大目玉を食らってましたが、心の中で「ごめん、実は一番熱心に読んでたのは私なんだ……」と謝ってました。みんな、あの時はごめん。

そんなノリの良さはありましたが、色恋沙汰にはまだ疎くて。
友達から男子との合コンに誘われたこともあったんですが、当時の私はびびって断っちゃったんです。

今思えば、若いうちに色々経験しておけば良かった!

というのも、その後の私は「部活命」の生活に突入し、誘いもパタリと止んでしまったから。
マイナーな部活動だったので身バレ防止で詳細は秘密ですが、まさに部活に青春を捧げた3年間でした。

バイトデビューもこの頃です。

ファミレスのキッチンで働き始めたんですが、そこがなかなかのパワハラ環境。
今なら「それアウトだよ!」と言えるけど、当時は耐えられず半年で辞めちゃいました。
世の中の厳しさを知った、ほろ苦い経験です。

そんな風に遊びや部活に全力だったツケが回ってきたのが、勉強面

小・中学校までは先取り学習で貯金があったからなんとかなっていたけど、高校の勉強はそんなに甘くなかった!本格的に授業についていけなくなり、成績はガタ落ちに。

追い打ちをかけるように、私立高校の学費で家計が火の車なのも察していました。
「予備校に行かせて」なんて言える雰囲気じゃなかったし、独学でMARCHクラスを目指したものの、結果はあえなく不合格。

「浪人するお金もないし、どうしよう……」

そうして私は、予備校の代わりに「社会」という名の現場へ、フリーターとして放り出されることになったんです。

フリーター編

大学受験に失敗し、18歳でフリーターになった私。

「このままじゃいけない!」と最初に思いついたのは、海外留学でした。
でも、調べてみてびっくり。年間300万円以上……。
「うん、無理だわ」と秒で諦めました(笑)。

でも、「海外の人と話したい!」という気持ちだけは消えなくて。独学で英語の勉強を続けることに決めました。

「朝5時起き」と「デリバリー」の二足のわらじ

まずは生活を整えるために、近所のコンビニでバイトを開始!

英語の勉強時間を確保したかったので、シフトは超早朝の「5時〜9時」
これが意外にも大正解でした。
ファミレス時代とは比べものにならないくらい人間関係が良くて、オーナーや仲間たちとは今でも交流があるほど居心地が最高でした。

仕事にも慣れてきた頃、さらに「新しいことに挑戦したい!」と始めたのが、某お寿司屋さんのデリバリー。
原付の免許をサクッと取って、友人のツテで入りました。

実は、バイクなんて乗ったこともなかった私(笑)
運転もおぼつかない女の子がいきなり「配達やります!」って入ってきたんだから、店長やマネージャーは相当ヒヤヒヤしたはず。
でも、風を切って走るデリバリーの仕事は楽しくて、結局大学卒業まで続けることになります。

人生初のデート、そして人生初の失恋

そんな中、中学の同窓会で運命(?)の再会が。
きっかけは、私が働いていたコンビニに、同級生のウシロダくんも働いてたことが分かったため。
同じバイトで働いていたので共通の話題も多く、話が盛り上がりました。

そこから連絡を取り合うようになり、人生初のデートへ!

場所は、サラリーマンの方々が行くような「鳥良(とりよし)」
おしゃれなイタリアンとかじゃなく、ガッツリ手羽先をつつきながら飲むビールは最高でした(笑)

何度かデートを重ね、意を決して私から告白!……しましたが、結果は見事に撃沈。

人生初の失恋はほろ苦かったけれど、これもまた「経験値」になりました。

10月からの大学受験

そんな自由なフリーター生活を楽しんでいた私に、ついに親から現実的な話が。

母

このままフリーターを続けるなら、家にお金を入れてね

「ずっとこのままじゃいられない」 心のどこかでそう思っていた私は、ここでついに再受験を決意します。

家族会議を重ね、覚悟を決めたのが……なんと、もう10月!

数学や化学なんて、もう脳内からきれいさっぱり消えていました。
そこで私は戦略を立て、「英語と国語だけで受けられる学校」にターゲットを絞りました。 朝はバイト、昼からは狂ったように猛勉強。
デリバリーで培った集中力をすべて参考書にぶつけました。

結果、わずか3ヶ月のラストスパートで、都内の私立大学に見事合格!

「あきらめなければ、道は開けるんだ!」 デリバリー用の原付を転がしながら、私は新しい未来にワクワクが止まりませんでした。

大学生編

10月からの猛勉強の末、ようやく手にしたキャンパスライフ。

でも、私の大学生活は華やかなドラマとはちょっと違う、なかなかハードで「現実的」なものでした。

「日本人に帰化」と、新しい名前

この頃、私にとって大きな出来事がありました。

日本国籍への帰化です。

父はベトナムに強い誇りを持っていて、日本人のことがあまり好きではありませんでした。
帰化をお祝いしてくれた両親の友人に父がブチ切れているのを見て、「あぁ、この人はこうやってどんどん孤独になっていくんだろうな……」と、どこか冷めた気持ちで感じたのを覚えています。

これを機に、名前を和名の「はるか」にしました。

自分の中で、新しい人生が始まったような、不思議な清々しさがありました。

700万円の「重すぎる」スタートライン

私立大学の学費を払う余裕は家にはなかったので、学費はすべて奨学金をフル活用しました。

毎月口座に振り込まれる14万円。

これ、全部借金なんだよね……

はるか
はるか

卒業時の返済総額は約700万円。

2026年になった今でもコツコツ返し続けている、私の人生の「重い鎖」との付き合いがここから始まりました。

オレンジデイズには程遠い、リアルな日常

大学1年で一番仲が良かったのは、年上の「林姉さん」。

林姉さんとは、毎日のようにカラオケに行ったり、好きなアイドルのライブを観覧しました。

林姉さんは、声優学校を辞めて入学してきた面白い人でしたが、夏休みを過ぎたあたりから大学に来なくなり、そのまま退学……。連絡も取らなくなりました。
唯一の親友がいなくなって、私の大学生活は一気に寂しさ全開モードに。

ドラマ『オレンジデイズ』みたいなキラキラした生活、どこにあるの!?(笑)

はるか
はるか

あまりに空しい生活が続いたので、2年生からは高校時代にやっていた部活動を再開しました。

浪人していたので、タメの先輩がいてため口にするか悩んだりしました。
そこで決めたマイルールは「年齢か学年、どちらかが上なら全員敬語!」
余計な人間関係のトラブルを避けるための、私なりの考えです。

そのおかげ?かそこで出会った部活の仲間とは今でも縁が続いています。

「人間関係リセット癖がある」と思っていた私ですが、長く続く縁の大切さを知ったのはこの頃です。

救世主・ゆうちゃんの「戦略的就活アドバイス」

大学後半、私の精神的支えになったのは中学時代の親友のユウちゃんでした。

すでに社会人になっていたユウちゃんとは、ゲームをしたりスーパー銭湯に行ったり。
就活を控えた私に、彼女は目からウロコの「戦略」を授けてくれました。

  • 大学やイベントの企業ブース
    大手で行列ができる場所はスルー。あえて「誰も話を聞いていないブース」へ行き、担当者から社会人の生の声をじっくり聞き出す。
  • グループワーク
    下手に司会をやって自爆するより、タイムキーパーに徹して「話し合いの着地点」を提案する役割を狙う。

これ、実は資産運用にも通じる「勝てる場所で戦う」という考え方ですよね。

この作戦が面白いほどハマり、私は大きな苦労もなく、システムエンジニアとしての内定を勝ち取ることができました。

ユウちゃんとは今でも、毎年お正月に会う大切な仲。

孤独になっていった父とは対照的に、私は友人たちに支えられたおかげで、なんとか社会人への一歩を踏み出すことができたのです。

社会人編

SE(システムエンジニア)として働き始めた私の生活は、一言で言えば「修行」でした。

実家暮らしでしたが、家に入れるお金は毎月8万円。
さらに奨学金の返済。

一人暮らしをしたいと言っても、親からは「生活費がもったいない」と引き止められ、自由な時間はほとんど残業に消えていきました。

「合コン20回」の野望と戦友たち

そんな閉塞感を打破したくて始めたのが、ユウちゃん直伝の「合コン」です。

目標は1年で20回!

実際には18回で終わりましたが、同期のトモちゃんとユリちゃんを誘って、戦場(笑)へ通い詰めました。
今思えば、あの激務の中でよくやったなと思いますが、彼女たちとはただの同期を超えた「戦友」になれました。

でも、体力的には限界でした。
5年後、私は残業ばかりのIT業界を離れて事務職へ転職。
給料は下がりましたが、定時に帰れるようになり、ストレスのない生活がおくれました。

「お金がないと、心は荒れる」実家の崩壊

休みが増えて自分の時間を楽しめるようになったのも束の間、実家ではとんでもない大問題が起きていました。

定年を過ぎても働いていた父でしたが、不況のあおりで仕事がなくなってしまい、家のローンの支払いがピンチに。

すると父は、あろうことか私が中学生の頃に言った「大人になったら(ローンを)払うよ」なんていう幼い約束を持ち出して、私に支払いを肩代わりするよう迫ってきたんです。

いや、さすがにそれは無理! 自分で奨学金も返してるんだから!

はるか
はるか

私は断固として拒否しました。中学生のときの無邪気な一言を、いい大人が本気でアテにするなんて……。

さらに追い打ちをかけたのが、父の女性問題です。浮気ではないにせよ、飲み屋で知り合った女性に「放っておけない人なんだ」とか言って、自分のお金を渡していたことが発覚。 「自分の娘に借金の肩代わりを頼むような人間が、どの口で言ってるの?」 もう怒りを通り越して、呆れと悲しさでいっぱいでした。

この日を境に、両親の喧嘩は絶えなくなり、お金の余裕がないことがいかに人の心を荒らし、家庭を壊していくのかを嫌というほど見せつけられました。

家族との決別、そして「バラバラ」の再出発

結局、家を売って両親は離婚することに。

最後に一番激しく揉めたのは、弟の学費問題でした。

弟が「自分は奨学金(借金)を背負いたくない」と言い出し、父もそれを聞き入れて「弟の学費は家を売った金から出す」と言い出したんです。

その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かがブチ切れました。

家を売ったお金を両親で分けるなら構わない。でも、弟だけ学費を出してもらって、私には700万もの借金を背負わせたまま差をつけるなんて、絶対に許せない!

はるか
はるか

私も、本当は奨学金なんて使いたくなかった。
親に気を遣って、必死に自分の名前で借金を背負って生きてきたのに……。
そんな自分が急に馬鹿馬鹿しくなり、私は生まれて初めて、親に対して感情を爆発させました。

弟に学費を出すなら、私の奨学金も全額返して。それが無理なら弟も私と同じように奨学金で大学に行かせて!

はるか
はるか

結局、父は最後まで首を縦に振りませんでした。 今後、私は一切両親の面倒は見ないということで落としどころをつけました。

引っ越し当日。一つの家から、父、母、私の3人が、それぞれ別の場所へと荷物を運び出しました。
作業員のお兄さんに「みんなバラバラに引っ越すのは、珍しいですね」と言われた一言は、今でも耳に残っています。

一つの家から荷物が3方向に分かれていく光景を、私は今でも忘れることができません。

悲しいはずなのに、私の心はどこか清々しさで満たされていました。

これからは誰の顔色も伺わず、自分の足で、自分のお金で生きていくんだ

一家離散というどん底のなかで、私は人生で初めて、本当の意味での「自由」を手に入れたのでした。

一人暮らし~現在編

資産500万で手に入れた「本当の自由」

20代後半、一家離散という経験をして、私は人生で初めての「一人暮らし」をスタートさせました。

よく「一人暮らしは大変だよ」なんて言われますが、いざ始めてみると……「え、最高にラクなんだけど!」という拍子抜けな結果に(笑)

洗濯や料理を自分でする手間なんて、家族の顔色を伺って神経をすり減らす生活に比べたら、天国のようなものでした。
実家へ家賃を払っていたおかげで、金銭的な感覚もすでに身についていたので、生活に困ることもありませんでした。

何より、心と体がどんどん健やかになっていくのが分かりました。

やっぱり「自分だけの居場所」って大切。
そんな心の余裕ができた頃、例の「合コン18回」の末に出会った今の旦那さんとのお付き合いが始まり、トントン拍子にプロポーズまでいただくことができました。

人生最高の日に起きた事件

幸せなはずの結婚式。

悩んだ末に「一応、親だし……」と両親を招待しましたが、これが間違いでした。

式場で飲みすぎた父が、スタッフや弟に「ほどほどに」と注意されたことに激昂。

なんと、ロビーに響き渡る大声で怒鳴り散らし、そのまま帰ってしまったんです。
一生に一度の晴れ舞台。
終盤の両親への手紙を読むシーンで、そこにいるはずの父はいない。
悔しさと情けなさで、涙がこぼれそうでした。

でも、この事件を救ってくれたのは式場スタッフの方々でした。

ロビーでの大騒動を友人や上司に悟られないよう、さりげなく配慮してくれていたんです。本当に感謝しかありません。
おかげで、今では親友のゆうちゃんたちとの間で「伝説のネタ」として笑い飛ばせるようになりました(笑)

これを機に、私は父と完全に縁を切りました。

父は今も嫌いな日本で一人寂しく暮らしているそうです。
父と連絡のやり取りをしてる母から、連絡してほしいと言われましたが、いまも連絡していません。

お金は「心の盾」になる

こうした経験を通じて、私が心の底から実感していることがあります。

それは、「最低限のお金がなければ、心の余裕は持てない」ということです。

お金が原因で壊れていく家族、差をつけられた学費、そして将来をアテにしようとする親……。
そんなことを私の子どもには経験させたくない。そんな想いで、私は資産運用を勉強して「つみたてNISA」を始めました。

その資産は現在、500万円を超えました

旦那さんも私の過去を理解し、一緒に前を向いてくれています。
身の丈に合ったマイホームを購入し、二人の子供にも恵まれ、今では「老後2000万円問題? 全然余裕!」と笑って言えるほど、順調に貯蓄が進んでいます。

ブログをとおして発信していきたい

「もっと資産運用を早く始めていれば、あんなに不安にならなくて済んだのに」 それが、今の私の本音です。

お金は、単なる数字ではありません。
大切な子供に「好きな道を選んでいいよ」と言ってあげられる優しさであり、自分たちの老後を自分たちで支える自立の証です。

お金の不安をゼロにして、自分と家族の心を守る

そんな思いで、このブログを運営しています。

一家離散から資産500万を築いた私の知恵が、同じように悩む誰かの力になれば、これほど嬉しいことはありません。

さあ、私と一緒に、自由への第一歩を踏み出しませんか?

Xからの読者コメントをお待ちしています。
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ABOUT ME
はるか
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主婦/駆け出しブロガー
ベトナム生まれホーチミン出身の元ベトナム人です。
日本の旦那さんと結婚して、日本文化のすばらしさに幸せを感じています。
日本の複雑な税金制度を克服すべく、節約や資産運用のお勉強中!

最近、自力で確定申告できるようになったことが嬉しく思う2児の母です。
学んだことをアウトプットして、読者や私の役に立つブログを作っていきます。
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